第42回 ソウル五輪・バルセロナ五輪日本代表 西 正文さん2010年01月10日 アマチュア野球選手の夢がプロ野球選手だけではなかった時代が確かにあった。80年代後半の頃である。このとき、確かにプロを目指さずに「オリンピック」を目指す選手がたくさんいたものだ。野球選手にとって生きる道はプロだけではない。アマチュアの世界に生き、頂点を目指した選手である。 西正文はそのうちのひとり。ロス五輪の最終選考で落選したのをきっかけにこの道を選び、ソウル、バルセロナと五輪メダリストとなった。プロ入りの打診を受けながら、また、ソウル五輪メンバーの多くがプロ入りを果たす中、アマチュアの道を突き進んだ選手であったのだ。野球はプロ野球だけではないということ、アマチュア野球の素晴らしさを西氏に語ってもらった。 【インタビュー:氏原英明】 西 正文さんインタビュー![]() 【07年AAAアジア選手権大会日本代表監督】 氏原(以下「ス」) これまでの野球人生を振りかえられて、どのようなものだったと思われますか? 西 正文さん(以下「西」) 流れとしてはすごく、路線に乗っているように思われがちなんですけど、実はそれほどでもないんです。高校時代のネームバリューも、学校にしても、何もなかった部分から、押し上げていただける方がいたのが良かった。純粋に、野球というものに向き合ってきたのじゃないのかなぁと思います。 「ス」 野球を始められた頃はどのような将来像を描かれてれいたのでしょうか? 「西」 当然、プロにいくという気持ちはありました。僕らの世代は「巨人の星」かサッカーかどちらか。野球ができた人がサッカーもできました。僕のインパクトとして強かったのは、江川とか篠塚とかですね。土曜日に放送されていた「巨人の星」が待ち遠しかったですね。 「ス」 高校はさほど有名ではない尼崎小田高校。こちらでもプロを目指されたのですか? 「西」 高校の時、プロは無理だろうなぁと。むしろ、プロがどういうところか分からなかったですし、公立校ですからね、強いチームと試合をしていないんですよね。 「ス」 その人生がどこで変わったのですか? 「西」 最後の大会が転機になったと思います。4回戦の 東洋大姫路 戦で2-3のゲームをやったんです。当時の東洋大姫路は前年が優勝したチームでしたし、そこに大阪ガスの関係者も見に来られていたようで、アイツ面白いやないかと。そこで、セレクションを受けるということになりました。 「ス」 公立の無名選手にとっては、すごいセレクションだったのでは? 「西」 いったら、100人くらいはいましたね。2日間あったんですよ。8月9日、10日、名前では呼ばれてません。ゼッケンでね。僕は26番でした。まさに、そんなセレクション。 「ス」 採用の話が来た時は、どんな気持ちでしたか? 「西」 「まさか」と驚きましたが、同時に、これで迷惑をかけずに、野球ができると。もう一度、プロに勝負できるところに挙げていただいたんで、恩返ししながらやって行かないといけないなという気持ちになりました。ようやく、認められたという気持ちがしました。 「ス」 高校野球で得られたものはありましたか? 「西」 そんなに厳しい学校ではなかったので、当たり前のことを当たり前にすることですかね。道具がたくさんあるわけでもないし、ボールがたくさんあるわけでもない。マシンもなかった。だからこそ、逆に、練習の質を高めようと、考える力を身につけさせてもらったのかなと思います。 「ス」 当時は、それこそ、根性野球ではなかったんですか? 「西」 それもベースにあったんですけど、この練習はなんのためにやるのかとか、考えられるようなチームじゃなかったら、勝てないだろうし、面白くないだろうなという発想のもとでやっていました。 よく、今は、「バットを振れ」という表現がありますけど、バットを振ってもボールは飛ばないという発想なんですよ。ボールを打ちに行って、こうなんだと考える。振るという動作より、打つということがベースだろうなと。300振りましたというのと、300打ちましたというのとでは重みが違うという発想でした。楽して上手くなれるということを考えるしかなかったですね。 「ス」 公立高校だからという良さを生かされていたんでしょうか? 「西」 公立高校だから良かったのは、環境ですかね。そこそこ練習もできましたし、ファンの存在がありました。黄色い声援も含めてのファンです。 「ス」 それが高校の部活のあるべき姿ですよね? 「西」 野球をする前にいち学生ですから。勉強ができる、できないにかかわらず、高校に行くということは野球より勉強であり仲間がベースで、それでクラブ活動ですから。その順番を間違ってはいけない。クラスで何もせずに練習だけに行くというのはルール違反ですから。私がやってあげるとかいってもらるような人間になるのも、高校生には大事だと思いますよ。 「ス」 そのなかで身に付いたことも多かったのではなはいでしょうか? 「西」 何が自分にとって当たり前ということですよね。コツコツするということが身についていたのかなという気はします。誰よりも早くグラウンドに行ける体制作りをしましたし、自分のエリアは自分で手掛けるというんですかね。そういうのは心がけました。 「ス」 自分のエリアですか? 「西」 自分のポジションであれば、下級生にやらさずに自分で整備をするということですね。高校時代の僕でしたら、マウンドをならすことです。 「ス」 そういう責任感は大事だと? 「西」 そういうモノがなかったら、ことが始まらない。よく、「努力をしろ」とかいいますけど、グラウンドでの努力というのは土の力をもらいながら一生懸命やらないといけない。泥にまみれたりという部分ですよね。自分がエリアをちゃんとしていなかったら、そんな力をもらえないだろうと。 「ス」 それは高校時代からもずっとそういう気持ちでされていたといことですか? 「西」 そうですね。当時、大阪ガスで採用していただいて練習に入った時に、勝てるなとすぐに思いました。伝統校には、あのユニフォームに負けていただけと思いました。 だからね、1、2年生がグラウンド整備をして、なのに、イレギュラー。そして、呼び出して、理不尽なことがあるじゃないですか。そういうのは僕からすれば当然イレギュラーするって思うんです。自分のエリアは自分でちゃんとする。イレギュラーをするということは、自分の仕方が悪かったとか、気持ちが入ってなかったのかがはっきり出ますから。1、2年生にやらせて、イレギュラーして怒るのはおかしいんですよ。ましてやラグビーボールではないわけで、真正面にきたら、グラブに入るはずなんです。それが社会人になればなるほど当たり前になってくる。より真剣にならなければ、差はつかないですからね。 【10年連続都市対抗出場を果たした。】 「ス」 大阪ガスに入社されてから、オリンピックまでのことを伺いたいと思います。社会人野球では10年連続都市対抗出場という勲章をお持ちですよね? 「西」 10年間都市対抗に出たのは24歳になってからですね、最初の6年間は出れなかった。野球部が2年目だったんで、当時の大阪枠って言うのは、強いチームが多かったので、6、7年かかって普通だった。だから、60年から10年ですね。 「ス」 日の丸を背負い始めたのはいつごろからですか? 「西」 85年からですね。ロス五輪が終わってから11人くらいプロに行きましたから、手薄になった所に入りました。ロスの最終選考にもいったんですけどね。 「ス」 ソウルが正式にメンバー入り。すごいメンバーだったですよね? 「西」 でしたね(笑)。2000本安打が二人いたり、メジャーを二人出したといえば、ゴールデンですよね。古田敦也、野村謙二郎、大森剛、野茂英雄、潮崎哲也、佐々木主浩…石井丈がソウルのエースだったですよね。 「ス」 ロス五輪で野球が公開競技になったときでしたから、野球人気が高くなり、野球界の盛り上がりも感じられた時期ではなかったでしょうか? 「西」 バブルもあり、企業も良かった。80年代後半はいい時期でした。僕自身としては、プロ野球に行きたいという部分から、オリンピックという部分にシフトチェンジしていくときですね。 「ス」 五輪にはまってしまった。ぜひ、つかみたい夢になったんですね? 「西」 つかみたいし、やってみたいという思いがありました。それまで見たことのないキューバを目の当たりにすると、プロじゃないなぁと。いろんな国のベースボールをみれる、キューバ、プエルトリコだったり、中南米だったり、数多くのチームを見れたので、そっちの方がいいという気持ちになりました。みんな、アメリカやキューバだけが強いと思っているんですよね。僕らは20年前にオーストラリアに負けているんですよ。何で?オーストラリアに?オランダ?知らない部分が多すぎますよね。20年前から僕は知ってましたから。 「ス」 完全にプロを目指さなくなったのは? 「西」 85年ですねかね。まぁ、プロを捨てるというか、年に1回ドラフトがあるんでね。アマチュアの方の想いが強かった。JAPANのユニフォームであり、正式競技になるといのがありました。ソウルのころには28歳になってましたから、プロはいいかな。ドラフトの前日くらいに、どうだ?というお話をいただいたんですけど、お断りしました。実はソウルの時は最後のバッターだったんですよね。 「ス」 ということはつまり、ソウルの屈辱が西さん大きくされたんですか? 「西」 僕の周りの内野手がみんなプロにいっちゃったから、僕しか残っていなかったというのもあります。正式競技というのは決まってましたから、ここから3年間はつらいだろうなと思っていました。体的にはひとつひとつのパーツが悪くなっていきましたよね。休んで一回リセットされたら上がるに上がれなかった。 「ス」 そんな中でバルセロナ五輪に出場されました。それまでとの違いはありましたか? 「西」 予選が初めてたったんですよね。ソウルの時はロスのチャンピオンだったから。正式種目で、アジアの予選があると、非常にきつかったですね。 「ス」 翌年に引退されたんですね? 「西」 僕は92年で引退していいかなと思っていたんですけど、アマチュア選手にとって「都市対抗10年連続出場」というのが勲章ですし、会社がぜひとらせてくれると。大切な1年だったかもしれませんね。恩返しができましたから。 「ス」 引退されて、改めて野球人生はどんなものだったかな、と思われますか? 「西」 何度も言いますが、何に関心を持てるかってことですね。想いですよね。自分がこうしたいと思う、道具をどういう風に自分のものにしようかとかを考えていたのかなと思いますね。こだわるというんですかね。ぶれなかったかもしれない。 「ス」 アマチュア野球の素晴らしさとは何になりますか? 「西」 一戦必勝ですから。ある意味、高校野球以上。いい年下おっさんがですよ、この1球に掛ける想いっていうのは高校生以上かもしれない。給料をもらっている分、よりそう思うかもしれないですけどね。僕自身はプロ野球が一番とは思っていません。一緒にやっていた人間がプロに行って、それなりの稼ぎをしているというのが現実的にはあるんですけど、プロに行っていない人でも想いはあるわけですから。 【考えて野球をやれていますか?】 「ス」 最後に高校生にメッセージはありますか? 「西」 練習時間が長すぎる(笑)長すぎて、考える力がないですし、僕らは学校から帰ってもプロ野球を見れた、そして、投手の配球がこうだとか、見る習慣というのがありました。 【インタビュー:氏原英明】
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